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2時間退屈か2時間後に鬱になるか…奇妙すぎる映画『聖なる鹿殺し』

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コリン・ファレルニコール・キッドマンが主演に名を連ねた映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』が公開中だ。

 

日本でも知名度ばつぐんのハリウッドスターが2人も出演する作品ながら、都内で上映しているのは3館のみと、決して公開規模は大きくない。しかしカンヌ国際映画祭で脚本賞に輝いた作品であり、クオリティは折り紙付きだ。監督は『籠の中の乙女』(2009)『ロブスター』(2015)などで知られるギリシャの鬼才、ヨルゴス・ランティモス

 

私は本作を新宿のミニシアターで観てきた。受賞歴以外の予備知識はなかったが、ギリギリでもないのに直近の回は満席で、次の回もかなり席が埋まっていたため「これは…」と期待に胸を膨らませた。

 

結論から言うと、誰にでもはおすすめできない映画だった。

 

理由は2つ。1つは本作がいわゆる“アート系映画”だからだ。エンタメ系の作品とちがい、合わなくて入り込めない人も多いと思う。そのくせトーンが不気味だから、なんとも歯がゆい退屈を味わうだろう。

 

一方で、物語に入り込めると、本作は激しく感情を揺さぶる深みある作品。が、何を感じるかというと、ものすごく“鬱なもの”である。これがおすすめできない理由の2つ目だ。その鬱なものは、劇場をでた後も当分引きずるくらい強烈である。

 

つまり本作は上映劇場に足を踏み入れたが最後、入り込めずに2時間退屈して過ごすか、入り込んでしまって心に鬱のお土産をいただくかのどちらかなのである。取り扱い「!注意!」な映画なのだ。そんな映画をこれからご紹介しようと思う。

 

※注意!ほぼ完全にネタバレします

 

 

 

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(公式サイトより) 

 

あらすじ

大病院に勤務する心臓外科医・スティーブン(コリン・ファレル)は、同じく医師の美しい妻・アナ(ニコール・キッドマン)と思春期の娘・キム、幼い息子・ボブの4人で、何不自由ない暮らしを送っていた。

しかし元患者の息子・マーティン(バリー・コーガン)と関わりを持ったことで、平穏な生活の歯車が狂いだす。当初は父親を亡くしたマーティンを気づかっていたスティーブンだが、彼の奇妙な言動に不信感を抱き、連絡を絶つ。するとボブとキムが相次いで原因不明の病に倒れてしまう。

なにくわぬ顔で病室に現れたマーティンは、スティーブンに信じがたい宣告をする。絶対に正解のない選択を迫られた時、人は答えを出せるのかーーー?

 

 ※くどいけど、ほんとにネタバレするよ!

 

本作はほんとに奇妙な映画である。少年マーティンも奇妙としか形容のしようがない人物だが、作品全体が奇妙なのだ。

 

マーティンの父親はスティーブンの執刀中に亡くなった。表ざたにはならなかったものの、その死は不可避なものではなく、スティーブンに非のある医療事故。彼は酒の入った状態でメスを握ったのである。スティーブンがマーティンを気づかうのは罪悪感からだったのだ。

 

しかしマーティンは真実を知っていた。そしてスティーブンの家族全員と面識ができたところで、復讐をしかけた。

 

まず異変が表れたのはもっとも幼少のボブ。次いで14歳のキム。症状は同じで、足が動かなくなり歩けなくなる。どんな検査をしても問題はみられない。医師たちが首をひねるなか、スティーブンは恐怖に震えていた。

 

歩けなくなり、食事がとれなくなる。やがて目から出血し始め、そこまでくると数時間で死に至る。妻子3人全員がそうなる。あなたの命は問題ないーーー

マーティンがスティーブンに宣告したとおりの事態になったからだ。その病から妻子を救う方法はただ1つ、3人のうち1人をスティーブンが殺すこと。

 

究極の選択に答えが出せないまま、まだ発症していない妻のアナとともに、自宅で子どもたちの看病をするスティーブン。激しい葛藤にも関わらず時間はすぎ、ついにボブの瞳から流血が始まる。

 

 

********

 

 

「え?じゃあマーティンって超能力者なの??呪い???」とツッコミをいれたくなるところだが、マーティンがどうやって子どもたちを病気にしたのかは明かされない。

本作はかなり寓話的な物語で、マーティンの正体がなんなのかは重要ではなく、したがって説明されず、ひたすら“極限状況におかれた理想の家族”の姿だけを描き出す。その姿を通して、何らかのメッセージを伝えようとする、そういう意図の映画なのだ。

 

メッセージとは何なのか…観る人によって変わると思うけど、個人的には“人間の本質”を見せつけられた気がした。

 

子どもたちが倒れた当初、スティーブンとアナは何とか事態を解決しようと奔走した。しかしどうあがいても、マーティンの提示した方法しか解決策はないとわかってくるにつれ、アナと子どもたちの態度が変化し始める。

 

それまで「子どもが死にかけてるのにあなたは能天気よ」と夫をなじっていたアナが、何事もないようにベッドで夫を誘惑したり、夫好みの服を着て見せたりする。

娘は父に「私が犠牲になる」と、けなげに申し出るが、両親の見ていないところで「死ぬのはあんたよ」と弟に言い渡していたりする。

息子はそれまでサボってばかりいた庭の水やり当番をこなすべく、ほふく前進で動かない足を引きずりながら庭を目指そうとする。

 

そう、全員がスティーブンに対し、点数を稼ごうとし始めたのだ。三分の一に選ばれないために。

3人のこうした言動には、もの凄まじく浅ましい印象を受ける。誰だって死にたくはないだろうけど、この場合「自分を選ばないで」は「他の2人のどちらかにして」と同義だからだ。 

 

それにしても、ちょっと脇道にそれるが、普通こういう状況では「親が犠牲になるのが当然」との判断になるんじゃないだろうか(普通にある状況じゃないけど)。「親のために子どもが犠牲になる」というのは、あんまり聞かない気がする。

しかしアナは「選ぶなら子どもよ。子どもはまた作れる」とスティーブンにはっきり言うし、スティーブンもそんなアナをとがめもせず、子どもたちの学校を訪ねて姉弟のどちらが優秀かを聞いたりしている。

 

以前何かで読んだのだけど、生命の危険を感じる状況に陥った時、日本人男性の場合は子どもの顔が頭をよぎるが、欧米人男性の場合は妻の顔だという。欧米で「結婚」とは恋愛と同じくあくまで「男女関係」であり、子どもは派生物にすぎないそうだ。(確かかわからないけど)

映画『リング』の邦画とハリウッド版で異なるラストを見た時もそうだったけど、「家族」に対する認識は日本とアメリカで微妙に違うのかなと本作からも感じた。

 

 

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話を戻して、椅子を奪い合う3人の姿を「本性を出した」とみなすのは酷だと思う。むしろ結局、人間も動物にすぎず、「生き残る」という本能にはあがらえないのが本質なのだということだと思う。

事実、3人の姿は浅ましいのと同時にとても痛ましい。

 

特にまだ幼いボブ。ちょうど反抗期に差しかかった年齢らしく父に口ごたえばかりしていた彼が、「ママと同じ眼科医になりたいって言ったのは嘘だよ。ほんとはパパと同じ心臓外科医になりたいんだ」と話したり、あんなに切るのを嫌がっていた髪を父の言いつけ通りに短髪にしたり、必死に父の顔色をうかがう様子は、「そりゃスティーブンも泣くわ」というくらい痛ましくて胸がしめつけられる。

 

死への恐怖から変わってしまったボブの様子にスティーブンが嗚咽をもらすのを見ると、「家族みんながお父さんのご機嫌をうかがう」というこの不気味な構図は、家父長制へのアンチテーゼなのかもしれないとも思わせられる。

 

 

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本作はストーリーにも展開にも、説明らしい説明はほとんどない。ないままにストーリーはずんずん進んでいくし、超常的な現象は深刻な様相をおびていく。しかし抽象的な作品だからこそ深読みしようと思えばいくらでもできて、そこがおもしろさでもある。

 

ただ結末が“ああいうもの”である以上、どんな深読みをめぐらせたところで、見終えた後に鬱になるのは避けられないと思う。(上映開始30分たらずで「フガフガ」と寝息を立て始めた、私の2つ右隣の席のおっちゃんは別として)

はたして、スティーブンが下す決断とは?

 

2時間退屈するか、2時間後に鬱な気持ちになるかしかない映画『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』。

くり返しになるけど、誰にでもはおすすめできない。ただ、ヨルゴス・ランティモスという監督の才能がいかに特異なものかを痛感させられる一作だった。

 

 

 

映画口コミはこちら!

 

 

www.finefilms.co.jp

 

(もう『鹿殺し』を思い出さずにこの曲聴けない)

 

 

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